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復活か、それとも死の直後に命があるのか? (PDF) PDF版

復活か、それとも死の直後に命があるのか?

本稿では、他の一連の記事と同様に、長い間議論され多くの疑問のもととなっている重要な話題について触れています。その話題とは、死後に何が起こるこということで、それついて、私たちが信頼できる唯一の情報源であり、真実に信じている神様の御言葉、聖書の観点から研究します。

1. 死者: 神は私たちに知っておいてほしい

この主題のリサーチを始めるに当たって、まずテサロニケの信徒への手紙一第4章13 節を読みましょう。

テサロニケの信徒への手紙一第4章13 節
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい

この聖句から明らかなように、神は「既に眠りについた人たち」、つまり死者について、私たちに知っておいてもらいたいのです。神が私たちに知っておいてもらいたい、ということは、神は無知や誤解を招かないよう、必要な情報を全て提供して下さっているということです。この情報を得るために私たちがしなければならないのは、聖句を何度も読むことです。実に、テサロニケの信徒への手紙一第4章の13節から18 節はこう語っています。

テサロニケの信徒への手紙一第4章13 節から18節
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」

この聖句では「キリストに結ばれて死んだ人たち」「キリストを信じて眠りについた人たち」に言及しています。これは両者とも主イエス・キリストを信じて死んだ人たちのことです。これらの人たちは全ての死者の内の一部分にすぎませんが、上記の聖句から導き出せる死者についての結論は、全体にあてはめることができます1

上記の聖句が語ること、つまり無知や誤解を取り除くために神が下さる情報に目を向けると、死の直後に生き返ることへの言及はなされていません。反対に、この聖句が示しているのは、復活こそが死からの唯一の出口であり、再び命を得るための唯一の道だということです。上記の聖句によると、主が来られる日に、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、それから、わたしたち生き残っているクリスチャンが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。「このようにして、わたしたちは(死者も生きている者も含む、全てのクリスチャン)いつまでも主と共にいることになり」、言いかえれば、主と共にいることになる(未来時制)のですから、現時点で主と共にいる死者はおらず、私たちが死んでも即座に主と共にいることにはなりません。そうではなく、主が来られる時に、共にいることになるのです。

 キリストに結ばれて死んだ者について十分理解するために、テサロニケの信徒への手紙一第4章13 節から18節の聖句が与えられましたが、他にも裏付けとなる聖句が神の御言葉にはあります。コリントの信徒への手紙一第15章20節から24節がそれで、まず20節から22節を読みましょう。

コリントの信徒への手紙一第15章20節から22節
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです

この聖句から、二つのことが明らかにされています。一つは、全ての人が生かされることになる、ということです。しかし、23 節が続いて語るように、「一人一人にそれぞれ順序があり」、つまり同時ではないということです。上記の聖句が明らかにするもう一つのことは、死者が生かされることになる、ということで、つまり今は生かされていないという意味です。ですから、それと反対のことを言う教義、つまり死者が生きているというのは正しくありません。いつ死者が生きることになるかは、23節から24 節で答えを得ることが出来ます。

コリントの信徒への手紙一第15章23節から24節
「ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」

最初に‐そして今までで唯一‐死者の中から復活したのはキリストです。しかし、キリストの復活は永遠には唯一のものとして留まりません。将来、それに続く復活があるからです。まず、キリストに属している人たち、つまり主イエス・キリストを信じて死んだ人たちの復活、それから残りの人たちの復活です。テサロニケの信徒への手紙一第4章でも明示されているように、初めの復活、つまりキリストに属する人たちの復活は、キリストが来られる時に起こります。このことから、上記の聖句の「予定表」によると、キリストに属する死者が最初に生かされ、それが起こるのはキリストが来られる日で、それは将来に起こることですから、主イエスを除いては、現在生きている死者はいないのです。すべての人が将来生かされることになり、一人一人にそれぞれ順序があります。

2.「死者はどんな体でくるのか」?

聖書は、キリストを信じて死んだ人たちが、キリストが来られる日に復活することを告げていますが、それだけではなく、どのような体で復活するのかも語っています。まず、コリントの信徒への手紙一第15章35節から41節を読みましょう

コリントの信徒への手紙一第15章35節から41節
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります」

パウロが、植物という違った物に生長する種と、体と「肉」の違いなどを例に挙げているのは、上記の聖句の冒頭の「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」ということについて明らかにしているのであり、42 節でもこう語っています。

コリントの信徒への手紙一第15章42節
「死者の復活もこれと同じです・・・」

「これと同じ」という言葉は、先に言われたこと(35節から41節)と後に続くこと(死者の復活)に結びついています。つまり、種は「死んで」植物としての体を与えますが、これと同じで地上の体は死にますが、復活すれば別の体を引き継ぐのです。そして、体がそれぞれ違うように復活した体も地上の体とは違うのです。さらに言えば、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっているのですから、これと同じで復活の体と地上での体は異なります。42節から45節が語るとおりです。

コリントの信徒への手紙一第15章42節から45節
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」

この聖句の中の「自然の命の体」という言葉は、ギリシャ語の「σώμα ψυχικόν」(soma psuchikon)の訳で、「psuchikon」は「魂」という意味の名詞「psuche」の形容詞型です。ですから、「soma psuchikon」とは「魂の体」という意味で、つまり魂に基づいた命の体ということです2。これは、私たちが現在持っている体で、「蒔かれる」(コリントの信徒への手紙一第15章44節)体です。しかしながら、この体は、神が約束して下さる永遠の命には適していません。実に、コリントの信徒への手紙一第15章50節はこう語ります。

コリントの信徒への手紙一第15章50節
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」

朽ちてしまう肉と血のこの体は、朽ちないものを受け継ぐことができないので、変わらなければなりません。53節から54 節が語るとおりです。

コリントの信徒への手紙一第15章53節から54節
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。』」

死ぬべき、朽ちるべきの現在の体が、死なない、朽ちない体を着る時に、死は勝利にのみ込まれます。新しい体‐復活した体(コリントの信徒への手紙一第15章44節)‐は、現在の朽ちる体‐蒔かれる体(コリントの信徒への手紙一第15章44節)‐に取って代わり、朽ちない体となるので、死には力がなくなるのです。魂の体、つまり魂に基づいた命の体ではなくなり、霊の体になります。現在このような体を持つ唯一のお方、主イエス・キリストと同じ特性と力を持つ体です。コリントの信徒への手紙一第15章44節から49節が語っています。

コリントの信徒への手紙一第15章44節から49節
「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです」

アダムとキリストを含む、地上に存在した全ての人は自然の命の体を持っていました。しかし、イエスだけが、ここから一歩先に行かれました。イエスは死にましたが、他とは違って死んだままではおられず、三日三晩の後に、朽ちない霊の体で復活されました。ですから、霊の体はただの理論ではなく、現実のものなのです。今現在、主イエス・キリストがその体を持っておられるからです3。そして、私たちは今、アダムの「ユニフォーム」である自然の命の体‐土からできたその人の似姿-を着ているのですが、キリストが来られるその日には、私たちはキリストの「ユニフォーム」である霊の体‐天に属するその人の似姿‐を着るようになるのです。このことがいつ起こるのかは、コリントの信徒への手紙一第15章51節から52節に答えがあります 。

コリントの信徒への手紙一第15章51節から52節
「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」

テサロニケの信徒への手紙一第4章15節から18節もこう語っています。

テサロニケの信徒への手紙一第4章15節から18節
「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい」

これまでに明らかになったことから、以下のように結論することができます。

神は私たちに死者について知っておいてもらいたいと思われ、そのために、死者に関連した有益な情報を御言葉の中に提供して下さっています。その情報によると、キリストは死にましたが神がキリストを復活させたので、現在生きている最初にして唯一の方であるのがわかります。コリントの信徒への手紙一第15章23節が指し示しているように、キリストが最初の方です。キリストに続いて、次に生かされるのはキリストに属する者、死んだクリスチャンであり、その後に残りの死者が続きます(コリントの信徒への手紙一第15章23節)。

御言葉によると、キリストに属する死者が生かされるのは、主が来られる時です。つまりは、主が来られるのは将来の出来事であるので、今生かされている死者はいないということです。死者は、キリストが来られる日に、生かされることになるのです。しかしながら、キリストが来られる日に起こる出来事はこれだけではありません。キリストに属する死者が復活するに続き、生き残っているクリスチャンが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます(テサロニケの信徒への手紙一第4章17節)。そしてテサロニケの信徒への手紙一第4章17節が語るように、「このようにして、わたしたち(全てのクリスチャン)はいつまでも主と共にいることになります。」

 その日に与えられる体について言えば、これは聖書の語る「霊の体」、つまり現在イエス・キリストが持たれているような、朽ちず死なない体です。この体は、雲に包まれて引き上げられる生き残りのクリスチャンが、現在の朽ちる自然の命の体に変わって与えられるものでもあります。御言葉によれば、これは「一瞬のうち」(コリントの信徒への手紙一第15章52節)で、そしてそれはいつでも、次の瞬間にでも起こり得るのです。その正確な日時は、御言葉では明かされていないので、誰にもわかりません(テサロニケの信徒への手紙一第5章1節から2節、マルコによる福音書第13章32節、ペトロの手紙二第3章4節から13節参照)。

3. 死者に関するさらなる分析

神の御言葉が死者についての真実をはっきりと述べているにもかかわらず、多くのクリスチャンが信じているのは全く違うことです。誰かが死ぬと魂は生き続け、裁きの後に主と愛する者たちがいる天国へと行き、はっきりとした意識を持って、至福に神を賛美する、というものです。ですから、この「一般的な見解」からすると、実は死というのは、「他の場所」で良い生活を手に入れるための私たちの味方であることになります。神が言われていることとこの考え方とを比べると、これは聖書から来たものではないのは明らかです。前述の聖句の他にも、御言葉には「一般的な見解」の間違いを明白に示すものがあります。下記で、この見解を神の御言葉と照らし合わせて検証します4

3.1.天国は死者が死後に行く場所であるか?

すでに明らかになっているように、天国へ行く最初の死者のグループは、主が来られる日に復活したクリスチャンです。このことから、現在天国にいる死者はおらず‐勿論、復活されたキリストは例外です‐、死後に天国へ行く者もいません。それでは、死者はどこへ行くのでしょうか?聖書にある答えは、単純に墓であり、聖書で「よみ」または「陰府」と示される死者の場所です。この二つの言葉についての研究は、死者の場所、陰府をより理解するのに役立ちます。その目的から、“聖書の中でシェオルとハデスという言葉が使われている頻度”では、聖書の中にこの二つの言葉が現れる箇所を全て挙げています。

3.2 死者には意識と知識があるのか?

他にも死後についての伝統的な主張には、死者は生き続け、知識や意識があり、生きている者を助けるというものがあります。神の御言葉から判断すると、この主張が正しくないのは明らかです。実に、死者は今生きていないということは明らかになったのですから、言いかえれば、生きている者たちだけにできることを、死者はすることができません。コヘレトの言葉第9章4節から6節、10節には、異なる意見の入る余地はありません。

コヘレトの言葉第9章4節から6節、10節
「命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。犬でも、 生きていれば、死んだ獅子よりましだ。生きているものは、少なくとも 知っている自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何 ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく彼らの名は 忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ太陽の下に 起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない。///何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ

この聖句から明らかなように、死者には意識はなく、「太陽の下に 起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない」、つまり命の中に起こることのどれひとつにもかかわりがありません。このことは、死後にある意識と知識についての主張の誤りを証明するだけではありません。多くの宗派が主張する「聖なる」死者が他の「聖なる」者に現れ語ったり、マリアが祈りを聞きそれに応えるという人たちにも、反証しています。聖書から明らかなように、復活されたキリストを除いては、死んで今も生きている者は誰もいません。ですから、生きている人の前に現れることができる死者や、祈りを聞いて応える死者はいません。死んでいるのですから、意識はなく「太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない」のです。

3.3 死者は神を賛美するのか?

死者についての別の伝統的な主張は、死者は天国へ行き神を賛美するというものです。神が私たちに明かされた情報によると、この主張もまた誤りであることは明白です。死者は天国にはおらず、生きてもいないのですから、賛美もできません。御言葉がはっきりと答えています。詩篇第6章5 節が語っています。

詩篇第6章5 節
「死の国へ行けば、だれもあなた[神]の名を唱えず陰府に入ればだれも あなたに感謝をささげません」

伝統的な考えとは異なり、御言葉は「死の国へ行けば、だれも」神の「名を唱えず」と明らかにしています。陰府に入れば、だれも神に感謝をささげません。それができるように生きている者はだれもいないからです。反対に、神を賛美し神に感謝をささげるのは、命のある者だけなのです。イザヤ書第38章18節から19節が語っています。

イザヤ書第38章18節から19節
陰府があなた[神]に感謝することはなく死があなたを 賛美することはないので墓に下る者はあなたのまことを 期待することができない。命ある者、命ある者のみが今日の、 わたしのようにあなたに感謝し・・・」

神に感謝し賛美するのは、命ある者であって、死者ではありません。ですから、神に感謝し、神を賛美するのは今この時です。死んだ時ではありません。

3.4 死は神がくださった味方であるか?

上記に加えてまた別の伝統的な主張は、死は神に近づくために神が私たちにくださった味方であるということです。パート1 とパート2でわかったことは、この主張が誤りだと証明するのに十分です。もしも、死が神がくださった味方だとするなら、神が復活によって死の力を打ち消す理由はありません。このことから、伝統が指示する、死は私たちの味方という考えは間違いです。コリントの信徒への手紙一第15章26節が語っています。

コリントの信徒への手紙一第15章26節
「最後のとして、死が滅ぼされます」

死は味方ではなく、いずれ滅ぼされる敵です5。このことから、死は神から滅ぼされる敵であって、神を創始者とすることはできないと結論できます。それでは、誰が真の死の創始者なのでしょうか?ヘブライ人への手紙第2章14節に答えがあります。

ヘブライ人への手紙第2章14節
「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし」

このように、死をつかさどっているのは、神ではなく、悪魔です。ヨハネによる福音書第8章44節がその特徴を語っています。

ヨハネによる福音書第8章44節
「あなたたち[イエスが話しかけているユダヤ人たち]は、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、・・・」

悪魔は最初から人殺しです。対照的に、神は死を一切望まれず、死の問題を完全に解決されるために働かれています。その解決法とは何でしょうか?主イエス・キリストを信じることです。ヨハネによる福音書第11章25節でイエスが言われました。

ヨハネによる福音書第11章25節
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』」

イエスを信じる者が、死んでも生きるのはいつでしょうか?すでにおわかりのように、主が来られる日です。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」(コリントの信徒への手紙一第15章52節)。

4. 結論

本稿では、死後には何が起きるのかを研究しました。明らかになったように、死から復活された主イエス・キリストを除いては、今命のある死者はいません。主が来られる日に、次に生かされるのは、キリストに属する者、つまり死んだクリスチャンです。その日に彼らが持つのは、死ぬまで彼らが持っていたような自然の命の体ではなく、現在主イエスが持たれているような霊の体です。死者のクリスチャンの復活に続いて、その日に生き残っているクリスチャンの復活が起こり、彼らもまた霊の体に変えられます。この後に、「わたしたち[死者も生きている者も含む、全てのクリスチャン]はいつまでも主と共にいることになります」(テサロニケの信徒への手紙一第4章17節)。

死者について聖書が述べることを検証し、続いて伝統的な一般の見解を神の御言葉に照らし合わせて検証しました。そこから、死者について以下のことが明らかになりました。

i) 天国へは行かず、陰府へ行く(ヘブライ語の「Sheol 」、ギリシャ語の「Hades」)

ii) 意識はなく、命ある者との分かち合いはない

iii)神を賛美することも、神に感謝をささげることもしない さらに、以下のことが明らかになりました。

iv) 死は私たちを神に近づける味方ではなく、滅ぼされる敵である

v) 死の創始者は神ではなく、悪魔である

上記のことから、私たちクリスチャンは死に希望を持つべきではないことが明らかになりました。私たちの希望は主イエス・キリストの来られる日で、もし私たちが死んでいるなら復活し、生き残っているなら空中で主と出会うために、雲に包まれて引き上げられる(テサロニケの信徒への手紙一第4章17節)その日です。ですから、クリスチャンとして私たちは死ぬ日を待つのではなく、主が来られる日を待ち望みましょう。フィリピの信徒への手紙第3章20節から21 節が語る通りです。

フィリピの信徒への手紙第3章20節から21 節
「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体[自然の命の体]を、御自分の栄光ある体[霊の体]と同じ形に変えてくださるのです

ですから、宗教の誤った「励まし」ではなく、御言葉が与えてくださる真の励ましに対して、私たちの耳と心を開きましょう。惨めな死の日を待つのではなく、主の来られる栄光の日を待ち望みましょう。その日には、私たちの現在の朽ちる自然の命の体が、「栄光ある体と同じ形に変え」られ、そうして「いつまでも主と共にいることになります」。

タソス・キオラチョグロ(Tassos Kioulachoglou)

日本語: Tsukasa Ugaeri

Bible Copyright: ©共同訳聖書実行委員会Executive Committee of The Common Bible Translation

 



脚注

1.  記事が進むと明らかになるように、死者の種類によって(信者、不信者、その他の管理下に住んだ人々)復活の時が違い、また復活の後に続くこと(永遠の命、罪の定め、律法による裁き)にも違いがあるが、これらの種類を構成している死者の現在の状態には違いはない .

2.  魂についての詳細は、肉体、心、霊魂を参照

3. イエス・キリストは復活の後に霊の体を持ったので、その体の特性や能力についての詳細な情報は、復活後の福音を参照するのが適当である。そこから以下のことがわかる:霊の体には超自然の力がある。復活したキリストは自動的かつ突然に出現したり消失したりすることが可能だったからである(ルカによる福音書第24章31節、37節参照)。さらに、霊の体は変異可能であった(マルコによる福音書第16章12節)。しかし、肉も骨もあり、触ることもできたことから、完全な体であった(ルカによる福音書第24章39節)。

4. 魂と、それに関連する「魂は不死」という見解について、聖書がどのように定義しているかの検証は、記事肉体、心、霊魂参照

5. 死の破滅についての正確な記録は、ヨハネの黙示録第20章14節を参照